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かくして、走り始めた

40歳の手前から、走り始めた。その辺の経緯を、「050 ゼロ・ゴ・ゼロ」という

地元のタウン誌に書いたことがある。ちょっと長いが、転載しておく。

 

ある「走る阿呆」の独り言

 

■かくして、走り始めた

 40歳になろうとしていた。大きな病気もケガもなく、食うに困らないほどの仕事を得、息子たちもそれなりに育っていた。抑揚のない日常の流れに、少し物足りなさを感じていた頃、妻が唐突に走り始めた。「ダイエットしようかな」程度のきっかけだったと思う。どちらかというと運動音痴に近い。そう長くは続かないだろうと内心思っていた。それから数ヶ月。僕の知らないところで、妻は走ることにどんどんのめり込んでいった。そして彼女の行動が奇異に映ることが増えた。たまたま早朝に起きると玄関に汗だくになって仁王立ちしていたり、雨が降る寒い夜にランニングシューズを履いて出かけたり・・・。身体は次第に痩せ、ダイエットという目標は達成されたと思ったが、走る回数はさらに増えていった。

 「ホノルルマラソンに出たい」と言われた時、反対はしなかった。目標がそこに変わったんだなと解釈した。ハワイから帰宅した日。彼女はまともに歩けないばかりか、イスから立ち上がるたびに顔をゆがめていた。これは尋常じゃないな、と思った。自業自得と言えばそれまでだが、その代償は見るからに大きそうだ。「もう懲りた?」と聞いた。「ぜんぜん。来年も行きたい!」その時の妻の澄んだ笑顔に、僕は意表をつかれた。マラソンって何? その疑問と、未知の高揚感を経験した妻への嫉妬心が、僕に火をつけた。

 

■細い「そうめん」を作るように

 走り始めた日のことを覚えている。胸と腹の贅肉がだらしなく揺れた。近年味わったことのない強い息切れと動悸。200mでリタイア。3kmぐらいはいけるだろう、という甘い計算は、わずか数十秒で砕けちった。へこんだ僕に妻が一言。「とにかくゆっくり、歩くように走るのよ」。

 走力というのは、小麦粉をこねたダンゴのようなものだ。走り始めた頃の僕のダンゴは、ピンポン玉ぐらいの大きさだった。それで、うどんを作ろうとしていた。あっという間に終わる短いうどん。ならば、細いそうめんをつくればいい。日々の地道な練習は、ダンゴを少しずつ大きく育てていくことなのだろう。妻のアドバイスを実践して、そう感じた。半年後、そうめん走法にも慣れ、少しダンゴが大きくなったことを体感し、僕は初マラソンに挑戦した。沖縄の那覇マラソン。27km地点から激しい膝の痛みを感じ、耐えることができず途中で歩いた。目標の5時間はなんとか切ることができたが、その代償として膝の靭帯を痛め、2ヶ月以上まともに走ることができなかった。歩いてしまった後悔と練習できないストレスは結構重かった。もう一度、走ってリベンジしたい・・・。恥ずかしいぐらい純粋な想いがムクムクと育った。

 

■ランナーを駆り立てるもの

 マラソンの魅力は、第一に身体が変化することの喜びだろう。練習を積むにつれ、体重、体脂肪、タイムの進化を数値的に実感できる。諦めていた老化という現象を、努力によって先送りできることを知った。第二の魅力は、その距離にある。真面目に練習してレースに臨めばその場の「ノリ」で30kmぐらいまでは辿り着くことができる。問題は残りの12.195km。疲労と苦痛で極限状態に陥るこの時間帯に、身体と心は日常ではありえない「ギリギリの会話」をする。この体験は、とても貴重だと思う。第三の魅力は、沿道の応援。自分を追いつめているからだろう、普通なら聞き流してしまうような言葉が、胸に沁みる。「まだいける!」「ナイスラン!」「楽しんで!」・・・。ランナー一人ひとりに手を振りながら「ありがとう!」と声をかけるお婆さんに出会った時は、不覚にも泣きそうになった。そして最後の魅力は、精根を使い果たした後に訪れる。僕の場合、ゴール直後は達成感ではなく安堵感や解放感に包まれることが多い。「もう走らなくて良い」「もう我慢しなくて良い」「もう・・・」。そんな言葉しか浮かばない。達成感は家に帰って風呂を浴び、ビールを口にしたアタリからじわじわとやってくる。陽だまりのようにやさしく温かい、至福のひとときだ。

 いずれにしても、マラソンは準備段階を含めその大部分が我慢と疲労と苦痛で構成されている、苦行のような趣味だ。その膨大なエネルギーと時間の投資に比べれば、見返りはあまりにも小さい。ただ、その小さな見返りが放つ輝きの、なんと眩しいことか・・・。2009426日午前9時。僕は今年も号砲とともに鷲の門をゆっくりと走り出すだろう。「走る阿呆」しか知ることのない、一瞬の閃光のような儚い見返りを期待して。